(あぁ…眩暈がする…)
まったく力の入らない足に、それでも自分自身を叱咤し立ち続けるヒュンケルは、今日何度目かわからない深い深いため息を吐いた。
なぜこんな事になってしまったのか、それすら考えるのが嫌になってしまうほど、今のヒュンケルは心身ともに衰弱しきっていた。
一刻も早く今の状態から開放されたいと願うヒュンケルだったが、己の身体に纏わりつく湿った空気や熱気といったものが、そう簡単にヒュンケルを開放してくれるわけでもなく、それどころか更に増すその不快な感覚に、眉間の皺が益々深くなるのを感じた。
更には自分ではない他人から発せられる熱を含んだ荒い息遣いが、ヒュンケルの聴覚を嫌というほど刺激する。
「ぁ…あぁ…っぁ…ヒュンケル殿…!」
そんな全ての元凶である目の前の男が、恍惚とした表情でヒュンケルの名を呼ぶ 、、、
(あぁ…眩暈がする…)
その熱の篭った男の声は、戦士として狂人的な精神力をもったヒュンケルでさえ、おぞましさのあまり目を逸らし、耳を塞ぎたくなるほどだった。
そもそも一体なぜヒュンケルがそんな極限状態へと追い詰められているのか、それには理由があった。
そう、それは忘れもしない10日前の事 。
パプニカ城内に住むヒュンケルに、この国の王女であるレオナからある国との重大な交渉をしてくるよう、命が下ったのが最初のきっかけだった。
パプニカで騎士団長を任されているヒュンケルにとって、交渉といった任務を命じられる事自体珍しいのに、それが更に重大なと付くとは何事なのか…、ヒュンケルの表情に不安の色が濃くなった。
「姫…お言葉ですがそういった事でしたら私でなくポップの方が適任かと…」
武官であるヒュンケルよりも、文官で更に頭のきれるポップの方がずっと適任だと思ったヒュンケルがそう言うものの、レオナは静かに首を振った。
「今回の件はポップ君じゃ駄目なのよ…」
「ポップで駄目な交渉など私には尚更無理だと思いますが…」
パプニカ随一の頭脳をもつポップをしても無理な交渉など、自分にできるはずがないと思うヒュンケルだったが、レオナは無言である一枚の書類を見せてくれた。
その書類に書かれていた内容、それはベンガ−ナ王国とパプニカ王国の間を定期的に運行する船の便の費用について書かれていた。
「以前から要望の多かったベンガ−ナへの定期便運行を実現させようと今協議しているんだけど、ちょっと問題が起きてるのよ…」
「問題…と言いますと?」
「ここの金額をよく見てちょうだい。」
レオナが指差す先には、数を数えるのが嫌になるほどたくさんのゼロが並んでいた。
「…これはまた莫大な金額ですね…」
「そうなよ!船の建築から港の整備、運行を開始してから軌道にのるまでの費用を計算したらこんな金額になっちゃって…。しかもこれ、ベンガ−ナ王国と折半しての金額なのよ?兼ねてからの国民皆の希望だからなんとしても実現させたいって思ってはいるんだけどこれじゃ…」
はぁ〜とレオナから大きなため息が漏れた。
「たしかにこれでは今年の予算を全てまわしても無理そうですね…。それで私は一体何を交渉すればよろしいのでしょうか…?」
ここまでこれば聞かなくともわかるヒュンケルだったが、一応聞いてみる事にした。
「貴方にお願いしたい事はただ一つ。このパプニカの負担分を少しでも軽減してもらえないかベンガ−ナ王に直接お願いしてきてほしいの。」
思った通りの言葉がレオナから返ってきた。
「…話はわかりました。しかしなぜその交渉に私が適任なのでしょうか?」
兼ねてからずっと疑問に思っていた事を口にしたヒュンケルに、レオナは実にあっさりとした口調でこう言った。
「だって貴方ベンガ−ナ王との交渉で、今まで一度だってNOと言われた事があった?この前の交渉だって、ポップ君や他の文官が行っても首を縦に振らなかった王が、貴方が行ったとたんOKするなんてホントびっくりしたのよー」
それに王は貴方の事相当気に入っているみたいだし〜と言い、ちらりとヒュンケルを見るレオナに、ヒュンケルはただ苦笑いを浮かべる事しかできなかった。
「はぁ…まぁ、あれはたまたまうまくいっただけですよ…」
そうレオナの言葉に曖昧な返事を返すヒュンケルだったが、確かにレオナが言うとおり、どういうわけかヒュンケルはあのベンガ−ナ王に大変気に入られていた。
先日の交渉内容についても、何も王との間に巧妙な駆け引きがあったわけではない。
ただ「もう一度お願いできないでしょうか…」と言って頭を下げただけで、あの国王は首を縦に振ってくれたのだ。
一国を治める王として、他の者の意見も聞かず独断で物事を決めてしまうのはどうかと問われそうだが、あのベンガ−ナ王に限っては、それだけの権力を持っているのもまた事実なのだ。
また以前にもこんな事があった。
魔王軍との戦いが終わり無事勇者が帰還した後、パプニカへ身を置く事が決まっていたヒュンケルに、それでも是非我が国へ迎え入れたいという声が世界各国からあがる中、どこよりも熱心に、熱烈にヒュンケルを欲したのは外でもないこのベンガ−ナ王だった。
権力と財力を駆使して、あの手この手でヒュンケルを自国に呼び込もうとしたベンガ−ナ王の熱心さといえば、あまりにも度を越しており、とうとうパプニカ王国をも巻き込んでの大騒動へと発展してしまった程だ。
最終的にはヒュンケル本人の意思でパプニカに仕える事となったものの、それでも諦めきれないベンガ−ナ王が、せめて月に一度だけでも剣術指導等に、我が国へと来てほしいと言った為、とうとう根負けしたヒュンケルが月一だけとう事で合意し、この件に関してはようやく解決する事ができたのだった。
しかし最近ではこの剣術指導以外にも、ベンガ−ナで行われる式典やパーティ−といったものにも招待されるようになり、ヒュンケルはこの強引で遠慮知らずな王に、少々嫌気が差していたところだった。
なぜベンガ−ナ王がそこまでヒュンケルを気に入っているのか、一説にはその剣の腕前に惚れ込み、なんとか自国に取り入れたいという気持ちが大きかったからだという説もある。
好戦的で、魔王軍にやられるまで自国の武力に絶対の自信をもっていたベンガ−ナ王らしい考えといえばそうだが、どうもヒュンケルにはそれ以外の“何か”を、感じていた。
その“何か”が一体なんなのか、ヒュンケル自身はっきりとはわからないが、兎に角ヒュンケルを大いに気に入っているベンガ−ナ王なら、少々無理なお願いでも首を縦に振ってくれるに違いないと思ったのが、今回のヒュンケル任命に繋がったのだった。
(姫にしては些か軽率な判断だな…)
相手を気に入っているというレベルで交渉が成立するほど、今回の話は軽くはない。
それなのにたったこれだけの理由で、ヒュンケルを今回交渉人とするなど、普段のレオナからは考えられない判断だ。
だがあのレオナの事、多分駄目で元々、とりあえずヒュンケルを送っておけばベンガ−ナ王の機嫌も好くなるので、この後再交渉する際に、話が進みやすくなるのではないか…と、いった程度の理由なのだろう。
「兎に角、頼んだわよヒュンケル!期待してるから!」
「…あまりプレッシャ−をかけないでください…」
ベンガ−ナに行くと決まっただけで気分はブル−なのに、更にプレッシャ−をかけてくるレオナに、ヒュンケルは非難の眼差しを向けた。
「なに言ってんのよ!貴方の交渉次第で皆の夢が叶うんだから頑張ってちょうだい!」
「…最大限の努力はしてきます…」
駄目元とは思いつつ、それでも皆の為と言われれば、頑張らないわけにもいかない。
いつもの二割増しで険しくなった表情のまま、ヒュンケルはレオナの執務室を後にしたのだった。
こうして皆の期待を背にベンガ−ナに向かったヒュンケルだったが、これがまさか全ての悲劇の始まりとなるなどと、この時のヒュンケルは知る由もなかった……。
「ようこそヒュンケル殿!お待ちしておりましたぞ!」
ベンガ−ナに着いて早々、ヒュンケルを真っ先に出迎えてくれたのはなんと王その人だった。
いくらヒュンケルがパプニカの騎士団長だからとはいえ、一国の王が王族でもないヒュンケルを自ら出迎えるなど異例の事なのだが、ヒュンケルがベンガ−ナを訪れる際はいつもこうだった。
「王自らの出迎え、大変恐縮…」
「ははは!そう改まわずともよいではないですか!さ、さ、城内へどうぞ!」
「…はい、では失礼致します。」
礼儀正しくぺこりと頭を下げたヒュンケルの肩を、ベンガ−ナ王はバンバンと叩くと、豪快にがははと笑う。
その顔は本当に嬉しそうで、心からヒュンケルのベンガ−ナ訪問を喜んでいる事がよくわかった。
(……この雰囲気のままなら、話もうまくいくかもしれない……)
城内へと通された後も、変わらず上機嫌で自分に話しかけてくる王を見て、ヒュンケルはそんな事を思った。
だが王に連れられ会議室へと通されたヒュンケルを待っていたのは、難しい顔をしたベンガ−ナの大臣達だった。
「これはこれはヒュンケル殿、遠いところからようこそ。」
「さ、どうぞこちらの席へ」
そう言ってヒュンケルを席へと促す大臣達の中には、以前から見知った者もいれば、初対面にも関わらずヒュンケルを値踏みするような目で見てくる者もいて、ヒュンケルはいつも以上に緊張している自分に気付いた。
「それでは、会議を始めるとしよう。」
そんなヒュンケルの緊張とは裏腹に、会議室の中央、一際豪華な椅子に座ったベンガ−ナ王の言葉により会議は始まった。
「ふむ…ヒュンケル殿の話はわかりました。要するに定期船の費用を我が国で負担してほしい…と、そういう事ですな?」
「はい…。あ、いや全額というわけではなく、少しだけでもお願いできないかと思いまして…」
「少しと言いますとどれくらいでしょうか?」
「…2割から3割ほどお願いしたいのですが…」
「2割から3割…。そう言われましても莫大な金額になりますな…」
いくら世界一の財力をもったベンガ−ナ王国とはいえ、今までのように王の独断で返事をする事ができないほど、今回の金額は莫大なものだった。
いつになく真剣な表情で深く考え込むベンガ−ナ王だったが、突如周りをきょろきょろと見渡すと、大臣達に何か目配せをし始めた。
「ベンガ−ナ王??」
「うおっほん!あーすまんがヒュンケル殿、この件に関してだが、少し我々だけで話し合わせてもらえんかね?」
「え、あ、はいそれは構いませんが…」
突然の王からの申し出に、一瞬反応を示したヒュンケルだったが、直ぐに頷いた。
「やはりわし一人の意見ではいかんからな、他の者達の考えも聞かんと…」
そうだろおまえ達?と言い大臣達の顔を見る王に、大臣達は大きく頷く。
あの自己中心的な行動が目立つベンガ−ナ王にしては珍しい行動だが、やはり王たる者、家臣の意見を聞くのも大切なことだろう。
この行動に、あまり王の事を好く思っていなかったヒュンケルだったが、少しだけ王に対するイメ−ジが良くなった。…ほんと、少しだけだが…。
「では悪いが話が終わるまで別室にてお待ち頂けるかな?」
「はい、わかりました。それでは私は席を外させてもらいます。」
「うむ、すまんなヒュンケル殿。侍女に茶を用意するように言っておくゆえゆっくりしていてくれ。」
「はい、それでは失礼致します。」
一礼して退室するヒュンケルに、「申し訳ない」と言い見送るベンガ−ナ王と大臣達。
こうして別室で待つ事となったヒュンケルの元に、侍女がお茶を持ってきた。
流石世界一の金持ち王国ベンガ−ナだけあり、出てくるお茶もお菓子も最高級品ばかりだ。
そんなお茶とお菓子を少々摘みつつ待つ事小一時間。
侍女が話し合いが終わったと言い、ヒュンケルを呼びにやって来た。
「ヒュンケル様、大変お待たせ致しました。王がお呼びです、さ、こちらにどうぞ。」
そう言われ再び会議室へと通されたヒュンケルを待っていたのは、部屋を出る時と変わらない、笑顔のベンガ−ナ王だった。
…いや寧ろ退出時よりも機嫌が良いような気がする。
…これはもしかして話がうまくまとまったのか……?
そんな思いが過ぎる中、ヒュンケルは先程座っていた椅子に座り王の言葉を待った。
「いやー大変お待たせ致しました。」
「いえ、とんでもありません。それで、話の方はどうでしょうか…?」
「うむ…その事なんだがね、我々で話し合った結果、全額ベンガ−ナで負担しようという事になったのだよ。」
「それは本当ですか!!」
まさかの王の言葉に、ヒュンケルは我も忘れてその場で叫んでいた。
2割から3割でもありがたいと思っていたのに、それがまさか全額負担してもいいとは…!
「ほ、本当に宜しいのでしょうか?!」
未だに信じられないという表情のヒュンケルに、ベンガ−ナ王は笑顔で頷きこう続けた。
「まぁまぁ、落ち着いてください。全額負担、確かに我が国としても大変な痛手です…。ですがこれもパプニカとベンガ−ナ両国のためですからな!喜んで引き受けさせてもらいますぞ!」
そう言うとがははとこれまた豪快に笑うベンガ−ナ王に、ヒュンケルは今度こそ今まで抱いていた王へのイメ−ジを根本から変えた。
なんと素晴らしい王なのだ!……と。
「本当にありがとうございます!」
ベンガ−ナ王に深々と頭を下げ感謝の言葉を伝えるヒュンケル。
これでパプニカ国民の兼ねてからの願いである、定期船の運行が現実になる…!
そう思うと嬉しくて堪らなかった。
早くパプニカに戻ってこの結果を皆に伝えたいと思ったヒュンケルが、早々と席を立とうとした時、突如王から待ったが掛かった。
「まぁ、まぁ、まぁ、ヒュンケル殿、早く国へ戻り伝えたいのはわかりますが、もう少しお待ちください。…それに話はまだ終わっておりませんぞ?」
「え?っあ、そ、それは大変申し訳ございませんでした!…それでお話とは?」
王に声を掛けられ、いかに自分が焦っていたのかに気づいたヒュンケルは、恥ずかしさのあまり頬を紅く染め、慌てて王の言葉へと耳を傾けた。
「…いやー話ともうしますか…実は全額負担の代わりにですね、一つだけ条件を出させてもらいたいのですよ。」
先程まで笑顔を浮かべていた王とはまるで別人の、硬い真剣な表情で王は言った。
「え…?条件…ですか?」
「えぇ、そうです。なーに、そう大した条件ではありませんよ。」
そう言ってくっくっくと喉を鳴らし笑うベンガ−ナ王は、どこか嫌なものを含んだ笑い方だった。
その笑いに、一瞬ぞくりと嫌な予感がしたヒュンケルだったが、よく考えてみれば確かにあの莫大な金額を全額負担してくれるとなれば、無条件でというのも虫が良すぎるような気がする。
(そ、そうだな…あれだけの金額を負担してもらえるのだ、多少の条件がでてもしかたがないのかもしれん…)
そう考え直したヒュンケルだったが、どうしてもあの含みのある王の笑いに、胸騒ぎがする…。
「それでその条件というのはどういった事でしょうか?」
妙な緊張から、汗ばむ手を握り締め王の言葉を待つヒュンケルに、王はゆっくりとした口調で言った。
「ヒュンケル殿…今夜わしの部屋へ来てもらえますかな…?」
広い室内に王の声が響く。
「え…?」
「聞こえませんでしたか?今夜、わしの部屋へ来てほしいと言ったのです。」
「え…あ、わ、わかりましたが、それが条件ですか?」
「そうです。」
「…それで、部屋では何を…」
「ふっははは!ヒュンケル殿!まさか…この言葉の意味がおわかりではない…と?それともはっきりと言った方がよかったですかな…?」
くっくっくとまたあの含みのある笑いを浮かべ、ねっとりと絡みつくような視線を向けてくる王に、ヒュンケルはぞわりと背筋を粟立てた。
そして同時に気付いてしまった。
その条件の裏に隠された本当の王の目的に。
自分を見詰めてくるあの熱い王の眼差しの正体がなんだったのか…。
無言のまま固まるヒュンケルを見て、それを肯定と取ったベンガ−ナ王は、座っていた椅子から立ち上がると、ゆっくりとヒュンケルのすぐ傍まで近付いてきた。
そして…
「それでは今夜11時…寝室でお待ちしておりますぞ…」
そう耳元で呟きにやりと笑うベンガ−ナ王に対し、ヒュンケルは今まで味わった事がないほどの恐怖が全身を駆け巡るのを感じた。
「あ、そうそう大事な事を言っておくのを忘れるところだったな…」
血の気が失せた真っ青なヒュンケルを余所に、何かを思い出した王は、ポンと軽く手を打つと、ヒュンケルの耳元でこれまた意味深な笑みを浮かべたまま、再度呟いた。
「湯浴みを…念入りにしておいてくださいな…」
低く熱の篭った声でヒュンケルに呟いた後、王は心底愉快だと言わんばかりに声を上げて笑うと、会議室を後にした。
そしてそんな王の後を、王と同じぐらい厭らしい笑みを浮かべた大臣達が続いて出いく。
部屋に一人残されたヒュンケルは、ただただその場で立ち尽くす事しかできなかった。
こうしてヒュンケルの悪夢のような夜が始まったのだった。
・・・・・・To be continued

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